2007年9月2日 ピリピ4:1〜9 ピリピ連講11「一致の秘訣」
詩編交読 第121章(新共同訳)
1 都に上る歌。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るか。
2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
3 どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく、見守ってくださるように。
4 見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることはない。
5 主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
7 主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
8 あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。
聖書朗読 フィリピの信徒への手紙 第4章1節〜9(新共同訳)
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりとたちなさい。
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。しゅにおいて同じ思いを抱きなさい。
3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5 あなたがたの広い心がすべての人にしらせるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6 どんなときでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守ることでしょう。
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたいと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
 1節を読むとまるでラブレターの書き出しのようです。パウロがフィリピ教会のことを本当に愛していたことがよく分かります。2節ではユウオデヤとスントケという女性の奉仕者どうしで、何が原因か分かりませんが確執があり、パウロはこの二人に和解するように、そして他の同労者たちにも彼女たちを助けてあげるように求めています。この二人の女性は福音のためにパウロとともにとてもよく働いた人たちでした。よくできたからこそ、お互い譲れなく争いになったのかも分かりません。パウロはフィリピ教会を愛していたからこそ、教会内に争いや、不一致があることに心を痛め、互いに愛し合うことを願っていました。(フィリピ2:1〜3)これはキリストの心でもあります。(ヨハネ13:34)教会はキリストの体です。その中で争いや分裂があれば、全体が痛み、キリストが痛み悲しまれるのです。
 教会の使命は神の栄光を現すことです。もし教会に愛がなければこの世に対して神の栄光を現すことが出来ません。争いや不一致があるなら当事者が和解できるように助ける必要があります。キリストの体ですから他人事では内のです。一致できるようにどのように助ければいいのでしょうか。それはともにキリストに目をむけさせることです。
 一致の秘訣が4節に書かれてあります。それは
主にあって喜ぶことです。それはどのような状況の中でも主を喜ぶことです。どのようにしたら主を喜べるのでしょうか。それは感情ではなく信仰によって喜ぶのです。どんな苦しみや悲しみの中にあっても勝利の主がともにいてくださり、そのことを意味あるものにし、益に変えてくださるという確信を信仰によって持てるから喜べるのです。そこには葛藤と戦いがあるのです。喜ぶとは決して簡単で単純なものではありません。悲しんでいる人に、安易に喜びが足りないというなどと言うべきではありません。それは愛がない証拠です。ともに泣くことこそがなすべきことでしょう。自分が言われて傷つくことや、自分が出来ないことを人に忠告すべきではありません。
 
主を喜ぶことが出来れば寛容な心を持つことが出来るでしょう。(5節)寛容とは愛の実です。(第一コリント13:4、ガラテア5:22)忍耐することであり、赦すことです。主を喜ぶとは礼拝でもあります。私たちは神を礼拝するなら、つまり神を愛するなら人を愛する心、寛容さが与えられるのです。主が来られることが近いのだと知るなら細かい違いなどどうでもよくなります。お互い寛容になれるのです。
 
そして喜ぶために大切なこととして感謝を持って祈ることがあげられています。(6節)さきほど寛容になることの勧めがありましたが、神ほど寛容な方はいらっしゃいません。神は私たちのどのようなわがままな願いも絶対人には言えないような恨みや憎しみの声も忍耐深く聞いてくださいます。神は私たちのすべての醜い心、恥ずかしい罪の告白を知ってもなお愛してくださいます。だから感謝せずにはいられないのです。神は私たちの苦しみ、汚れ、醜さすべて知っておられます。ですから神にはすべてをさらけ出して祈るべきなのです。「そうすれば、人の考えにまさる神の平安が〜」(7節)という素晴らしい約束が与えられます。私たちの内にはキリストが住んでおられるのです。このキリストが平安を与えると約束されました。(ヨハネ14:27)祈りによって主と交わる時にどのような状況の中にあってもこのような理解を超えた神の平安が与えられるのです。
 そして8節ですが、
ここでは神の栄光を現している信仰の模範者たちから学ぶということが言えると思います。私たちの周りにもたくさんの信仰の模範者がいます。彼らの生きざまから多くのことを学ぶことができます。(星野富弘さん、水野源三さん、 レーナ・マリヤさんetc)そのことによって神を喜び、賛美することができます。
 9節で
パウロはこれからのことを実行するなら平和の神がともにいてくださいますと教えています。そうです神を喜ぶなら平和の神がともにいてくださるのです。そのことを知る時に真の和解、平和が訪れるのです。あなたの隣の人、あるいは争っている人も、キリストがその人のために死んでくださったほどに(ローマ14:15)愛しておられるのです。あなたのためにあなたの隣人のためにも死んでくださった主をともに喜ぶ時に、教会の中にまたあらゆる関係の中に主の平和が訪れるのです。主は私たちの和解、平和のために死んでくださったのです。(エペソ2:14〜19)
 主イエスはペテロにこのように問われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、私を愛しますか。」(ヨハネ21:15)誰よりも何よりも主を愛することこそ互いに愛し合うために必要なことです。私たちには愛する力はありません。平和の神を愛し、喜び、礼拝する中で真の一致と平和がもたらされるのです。(高内寿晴)

inserted by FC2 system