2007年8月12日 ピリピ3:17〜21「天国人の誇りを持って」
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先週のメッセージで語れなかった大切なことがあります。普通求道者といえば、イエス・キリストを信じていないけれどもキリストが真理かどうかを求めている人のことです。しかし3:12〜14のパウロの言葉を見ると、キリストを信じてクリスチャンになっても私たちは生涯天に帰るまで求道者であると言えます。 17節でパウロは「私をみならうものになってください。」と言っていますが、自分にあてはめてみてこのような言葉はなかなか言えるものではありません。しかしパウロ自身も「私はすでに得たのではなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。〜」(12節)と言っています。パウロはここで目標を目指して一心に走っている自身の求道の姿勢を見習ってほしいと求めているのです。 なぜパウロがこんなことを言っているかといえば、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。それはキリストの十字架による救い、つまり恵みによる救いを拒否する律法主義者や反対に罪の中に生きようとする放縦主義者であったと思われますが、彼らの思いは結局地上のことだけなのです。(18、19節) パウロはそうではなく天国に国籍を持っている者としてふさわしい生き方、天国人として誇りを持って生きよと勧めています。パウロはローマ市民でしたが、当時ローマ市民であることは大きな特権であり誇りでした。しかし誰もがローマ市民になれるわけではありません。今の時代でも国籍を変えるということはなかなか大変なことです。しかし天国に国籍を移すのは簡単です。天国の王であるキリストを信じるだけでよいのです。 今、アメリカ大リーグで日本人である松阪大輔やイチローが活躍していますが、同じ日本人として誇らしい思いがします。しかし私たちにとってイエス・キリストこそが誇りです。キリストが私の罪のために死んで復活してくださった。このキリストを信じ、キリストと結ばれて、この地上に籍を置くものから天国に市民権をもつ者に変えられたのです。(20節) しかしなお肉体はこの地上にあり様々な戦いや試練があり、天国人であるという自覚はなかなか持ちにくいかもしれません。女性が結婚して新しい性に変わっても慣れるまでにしばらく時間がかかります。しかし夫を愛し、夫と心がつながれているなら新しい性にすぐなれるでしょう。同じようにキリストを愛し、キリストと結ばれているなら天国人であるという自覚をもつことは難しくありません。 私たちのゴールはこの地上ではなく天国です。やがて主が私たちを迎えに来られる時が来ます。寿命が先か主の再臨が先か分りませんが、その時に主の力によって救いが完成するのです。(21節)その時まで私たちに必要なものは忍耐です。(ヘブル10:35〜39)患難、苦しみの中にあってキリストを見つめ、その中で喜び、確信、希望が与えられ、生かされている一日一日を丁寧に生きていくことを神様は願っています。 やがて主が来られると時に私たちの不完全な体は天国仕様のキリストと同じ栄光の体に変えられます。この救いの完成の希望こそが忍耐の力となるのです。(ローマ8:18) 私は天国人として誇りを持ってからますます日本人としての誇りを持つようになりました。確かに日本は過去に恥ずべき罪も犯しましたし、今も犯しています。しかしそれでも神様が日本を選んで私を日本人として生まれさせて下さったのです。そこには必ず神様の計画と目的があるのです。 祖国の国歌を聞いて胸が熱くなる人は多いと思います。それは祖国に誇りを抱いているからです。賛美は天国の国歌であり、魂の故郷の歌です。私たちが賛美を歌う時に天国人としての誇りが湧きあがってきます。 天を見上げる生き方、それは決して現実逃避でなく、この地上におけるあらゆる困難を乗り越える力と希望を与えてくれるのです。どうか与えられた一日一日を賛美しながら天国人としての誇りを持って生きていきましょう。(高内寿晴) |
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