2007年8月5日 ピリピ3:8b〜16「あせらず、あわてず、決してあきらめない」
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前回は「人生の損得計算」という題で、キリストを知ることがどれほど人生において得なことかを学びました。 9節にその理由が書かれています。ただで罪が赦され救いを受けることができる。こんな得なことはありません。キリストを信じるだけで神の義が与えられるという望が与えられるのです。しかしその義は保証されていますが未完成です。それはキリストの再臨時に完成します。将来のことですから望なのです。 私たちはキリストに結ばれました。それは結婚のようなものです。それはキリストとともに死に、キリストとともによみがえったということです。キリストと共に生きる人生はキリストの苦しみにあずかることでもあります。(3:10,1:27)夫婦でいえば妻の苦しみは夫の苦しみでもあり、夫の苦しみは妻の苦しみです。キリストに結ばれた私たちは、キリストの苦しみが私たちの苦しみともなるのです。キリストはこの混乱した世界を見、痛んでいる多くの人々を見、罪で苦しみ、滅んでいく人々を見て今も苦しんでいらっしゃいます。そのキリストの苦しみを共に苦しむことを通してキリストとの人格的な交わりが深められるのです。(ともに苦労した関係は強いものです) 確かにこの世では苦しみはつきませんが、このキリストとの関係が強くなればなるほど苦しみを補って余りある祝福、希望があるのです。 このキリストと共に私たちはゴールを目指します。そのゴールとは天国であり、救いの完成です。14節に「キリストにおいて」とあります。キリスト抜きにはゴールにたどり着くことは出来ないのです。つまりキリストご自身を知ること、それが人生の目標です。私たちはキリストを信じた時からどれほどキリストのことをよく知ったでしょうか。聖書の知識のことではありません。関わりの深さのことです。結婚でも年数を経るごとに妻や夫のことをどういう性格でどういう考え方をし、どういう癖があるかが分かってきます。噛めば噛むほど味が出るするめのような夫婦と言いますが、私たちとキリストとの関係も知れば知るほどにキリストの素晴らしさが分かります。 ですからまず人生の最大の目標を主を知ることに置きましょう。そうすれば自分の歩むべき道もはっきりとするでしょう。 16節でパウロが言っていることは人と自分を比較しないということです。立場も性質も賜物も違いますし、それぞれのペースも出発点も違います。大切なことは同じゴールに入れることです。 昨日(8/4)キャンプで天滝という大きな滝にハイキングにいきました。その滝を見るには1時間山道を登らなければなりません。大人もいれば子供もいました。体力も年齢も、それぞれのペースも違います。ある人はゆっくり、休みながら、ある人は一気に。でも最後は全員ゴールである天国ならぬ天滝に到着して喜び合いました。 私たちのゴールである天国に行くためには、あせらず、あわてず、そして決してあきらめないことです。疲れたら休んでもいい、2歩下がっても3歩進めばいい。一歩一歩歩んで行けば必ずゴールにたどりつくのです。 次に手の届く近いところにゴールを設定することが最終ゴールまで頑張れるコツです。近いところの目標を目指していくならおのずから最終ゴールにたどり着きます。 そして一番大切なことは主と一緒に歩くことです。主は私たちの人生の道のりを知っています。この先どんな難所があるか、どこに休憩所があるか、主は最高のガイドです。その主によって私たちは道を迷わないで歩き、励ましを受け、疲れたら主は重荷を背負って歩いてくださるのです。私たちは一人では決してゴールできません。主がともにいてくださることをいつも思いながら、どうせなら主とともに人生の道のりを楽しんでゴール目指して歩んで行きましょう。(高内寿晴) |
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