2007年8月5日 ピリピ3:8b〜16「あせらず、あわてず、決してあきらめない」
詩編交読 第119章129節〜119偏144節(新共同訳)
129 あなたの定めは驚くべきものです。
わたしの魂はそれを守ります。
130 御言葉が開かれると光が射し出て
無知な者にも理解を与えます。
131 わたしは口を大きく開き、渇望しています。
あなたの戒めを慕い求めます。
132 御顔をわたしに向け、憐れんでください
御名を愛する者への裁きに従って。
133 仰せのとおり
わたしの足どりを確かなものにしてください。
どのような悪もわたしを支配しませんように。
134 虐げる者からわたしを解き放ってください。
わたしはあなたの命令を守ります。
135 御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。
あなたの掟を教えてください。
136 わたしの目は川のように涙を流しています。
人々があなたの律法を守らないからです。
137 主よ、あなたは正しく
あなたの裁きはまっすぐです。
138 あなたは定めを与えられました。
それはもことに正しく確かな定めです。
139 わたしの熱情はわたしを滅ぼすほどです
敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです。
140 あなたの仰せは火で練り清められたもの。
あなたの僕はそれを愛します。
141 わたしは若く、侮られていますが
あなたの命令を決して忘れません。
142 恵みの御業はとこしえに正しく
あなたの律法はまことです。
143 苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが
あなたの戒めはわたしの楽しみです。
144 あなたの定めは
とこしえに正しいのですから
わたしに理解させ、命を得させてください。
聖書朗読 ピリピの信徒への手紙 第3章8節〜16(新共同訳)
8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
 前回は「人生の損得計算」という題で、キリストを知ることがどれほど人生において得なことかを学びました。
 9節にその理由が書かれています。ただで罪が赦され救いを受けることができる。こんな得なことはありません。キリストを信じるだけで神の義が与えられるという望が与えられるのです。しかしその義は保証されていますが未完成です。それはキリストの再臨時に完成します。将来のことですから望なのです。
 私たちはキリストに結ばれました。それは結婚のようなものです。それはキリストとともに死に、キリストとともによみがえったということです。キリストと共に生きる人生はキリストの苦しみにあずかることでもあります。(3:10,1:27)夫婦でいえば妻の苦しみは夫の苦しみでもあり、夫の苦しみは妻の苦しみです。キリストに結ばれた私たちは、キリストの苦しみが私たちの苦しみともなるのです。キリストはこの混乱した世界を見、痛んでいる多くの人々を見、罪で苦しみ、滅んでいく人々を見て今も苦しんでいらっしゃいます。そのキリストの苦しみを共に苦しむことを通してキリストとの人格的な交わりが深められるのです。(ともに苦労した関係は強いものです)
 確かにこの世では苦しみはつきませんが、このキリストとの関係が強くなればなるほど苦しみを補って余りある祝福、希望があるのです。
 このキリストと共に私たちはゴールを目指します。そのゴールとは天国であり、救いの完成です。14節に「
キリストにおいて」とあります。キリスト抜きにはゴールにたどり着くことは出来ないのです。つまりキリストご自身を知ること、それが人生の目標です。私たちはキリストを信じた時からどれほどキリストのことをよく知ったでしょうか。聖書の知識のことではありません。関わりの深さのことです。結婚でも年数を経るごとに妻や夫のことをどういう性格でどういう考え方をし、どういう癖があるかが分かってきます。噛めば噛むほど味が出るするめのような夫婦と言いますが、私たちとキリストとの関係も知れば知るほどにキリストの素晴らしさが分かります。
 ですからまず人生の最大の目標を主を知ることに置きましょう。そうすれば自分の歩むべき道もはっきりとするでしょう。
 16節でパウロが言っていることは人と自分を比較しないということです。立場も性質も賜物も違いますし、それぞれのペースも出発点も違います。大切なことは同じゴールに入れることです。
 昨日(8/4
)キャンプで天滝という大きな滝にハイキングにいきました。その滝を見るには1時間山道を登らなければなりません。大人もいれば子供もいました。体力も年齢も、それぞれのペースも違います。ある人はゆっくり、休みながら、ある人は一気に。でも最後は全員ゴールである天国ならぬ天滝に到着して喜び合いました。
 私たちのゴールである天国に行くためには、あせらず、あわてず、そして決してあきらめないことです。疲れたら休んでもいい、2歩下がっても3歩進めばいい。一歩一歩歩んで行けば必ずゴールにたどりつくのです。
 次に手の届く近いところにゴールを設定することが最終ゴールまで頑張れるコツです。近いところの目標を目指していくならおのずから最終ゴールにたどり着きます。
 そして一番大切なことは主と一緒に歩くことです。主は私たちの人生の道のりを知っています。この先どんな難所があるか、どこに休憩所があるか、主は最高のガイドです。その主によって私たちは道を迷わないで歩き、励ましを受け、疲れたら主は重荷を背負って歩いてくださるのです。私たちは一人では決してゴールできません。主がともにいてくださることをいつも思いながら、どうせなら主とともに人生の道のりを楽しんでゴール目指して歩んで行きましょう。
(高内寿晴)

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