2007年7月15日 マタイ10:1〜4「使徒の任命」
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イエス様はマタイによる福音書9章36節で人々が「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」のをかわいそうに思われ、その窮状を救いだすために弟子たちを自分の代理として派遣することを決心されました。 イエス様は特に信頼していた十二人の弟子を「使徒」に任命されました。「使徒」はギリシャ語で「アポストロス」「派遣された者」という意味です。「使徒」は派遣する人から権威を授けられ、ある特定の任務のためにその人の代理として派遣された者を指し、この時代に限定され現代でにおいて使徒と呼ばれる指導者は存在しません。イエス様は彼らに「汚れた霊どもを制する権威」を授けました。それは「霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを治すため」(マタイによる福音書10章1節)でした。このように特別の任務を彼らに与えたのです。 任命された彼らは、当時の社会において愚かな者たち、弱い者たち、取るに足らない者、見下されている者でした。そのような者をあえてイエス様は選ばれたのです。 後になって主はエリート中のエリートであるパウロを使徒に選ばれましたが、それは稀なことでした。そのパウロさえ自分のことを「罪人のかしらである」と言っています。 選ばれた十二使徒の筆頭はペテロですが、彼はガリラヤの漁師でした。この筆者のマタイは当時ユダヤ人が大変嫌った取税人でした。彼は自ら「取税人マタイ」と名乗っています。漁師という肉体労働者や取税人のような知的労働者と思える者、過去に失敗した者、汚点を残した者、恥に思えるような人生を歩んだ者がイエス・キリストを信じてそんな過去から救われ、それを名誉なこと、勲章として、キリストの恵みの救いを証する者として、取るに足らなかった者がキリストの弟子とされたことを「ありがたいこと、感謝なこと」として語らないわけにはいかない者に変えられるのです。 このマタイによる福音書の1章にはイエス・キリストの系図が出てきますが、その中には系図に載せるのは恥となるような四人の女性、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の名前が出てきます。この女たちは遊女、姦淫の罪を犯した者、異邦人でした。しかし信仰の目で読めばそれは最高の祝福の約束でもあるのです。 キリストの救いをいただいて、過去の恥、失敗、汚点から解放され、心の傷も癒され、それらを祝福の証しに変えていただけるクリスチャンは何と幸いな者でしょうか。(河野明) |
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