2007年7月1日 ルカ15:11〜21「失格者が資格者」
 この箇所はイエス様のたとえ話の中でも、特に有名な放蕩息子のたとえ話です。イエス様はたとえの中で、お金や財産の話をよく用いておられます。イエス様は私たちに、お金との付き合い方を教えておられるのです。お金か神かどちらを自分の主人とするかが、問われているのです。
 ここに出てくる弟は、お金との付き合い方を間違えました。この弟は自分の財産をもらって、家を出て行きました。彼はこれだけのお金があれば何でも自由に、できると錯覚しました。彼は自由を求めて、旅立ちましたがすぐに不自由になてしまいました。
 自由は動機と目的が大切です。目的のない自由は自分勝手、放縦に走ります。彼は父から離れて好き勝手したかっただけで、目的のない自由だったからあっという間に不自由になってしまいました。自由の結果は自由ではありません。人は何をしても自由ですが、その結果は自由には選べません。
 弟は大金を手にして遠い町に着きました。お金の値打が分からないから、ちやほやされて無駄遣いしてあっという間にすってんてんになってしまいました。しかも悪いことに大飢饉がおこり、食べることに不自由になってしまいました。仕方なく彼はユダヤ人のが忌み嫌う豚を世話する仕事につきました。それだけでも屈辱的なことですが、彼は豚の餌であるイナゴ豆さえも食べられないという、どん底生活に転落してしまいました。
 落ちるところまで落ちて彼は我に返りました。自分の惨めさ、間違えに気づいたのです。そして飢え死にするかもしれない恐怖の中で、父のことを思い出したのです。自分には帰る場所があることを思い出しました。この「我に返る」今の自分が本来あるべき自分ではないということに、気づくことはとても大切です。そして彼は家に帰る決心をし、父にもう息子と呼ばれる資格がないから雇い人のひとりにしてもらおうと思いました。(18・19節)
 父は毎日、毎日いつ帰るかもしれない息子を門のところで祈りながら待っていました。そこに息子が帰ってきたのです。父が目ざとく見つけます。息子が父を見つけたのではないのです。待ち続けた父が「あっ息子だ」とわかったのです。私たちがイエス様を見つけるより前にイエス様が先に私たちを見つけてくださったのです。20節の直訳は「首を抱きかかえて何度も何度もキスをした。」です。息子はほこりまみれでしかも豚のにおいがプンプンしていたことでしょう。父はそんなことは全くかまわず、どんなに息子が汚れていてもありのままを受け入れました。天の父も私たちがどんなに罪で汚れていてもそのまんまで受け入れてくださるのです。コレが恵です。
 息子は父に会ったら言おうと心の中で何度も繰り返していた言葉を口にしました。ところが父は息子の最後の言葉を言わせませんでした。それは「雇い人のひとりにしてください。」という言葉です。「あなたの子と呼ばれる資格はありません。」この一言で十分だったのです。神の子になるには資格はいりません。自分が神の子になる資格がないと心底分かった時に資格ができているのです。自分には資格がないという自覚こそが本当の資格を得る条件なのです。(第一コリント1:27〜28)
 私たちには帰る家があります。天の父は私たちが帰るのを今か今かと待っています。どんなにあなたが汚れていても、ぼろぼろでも天の父はあなたを赦し、祝福するために今も待っているんです。あなたが天の家に帰れるように、私たちの罪の責めをイエス・キリストの十字架によって取り除き、この十字架によって赦しのサインを送っているのです。だから私たちの父なる神の前に罪を悔い改め、自分の身代わりに十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じるだけで全部の罪を赦していただき、神の子とされ、天に行けるのです。本当にありがたいことです。どうかこのイエス・キリストを信じてください。そして新しい神の子としての人生を始めようではありませんか。
(高内寿晴)

inserted by FC2 system